【SKE48】『SKEフェスティバル』公演 浅井裕華は『1994年の雷鳴』!:家系から見る浅井裕華のアーティスト気質

 

SKE48『SKEフェスティバル』公演 浅井裕華のユニットは『1994年の雷鳴』! 2018年12月6日

 

『ハングリーライオン』からの脱出

名古屋SKE48の2018年12月6日の
『SKEフェスティバル』公演の
浅井裕華のユニットは
『1994年の雷鳴』だった。

今まで、浅井裕華は
『ハングリーライオン』にしか
出たことがなかった。
ずっと青で、最近、赤もやった。
青の浅井裕華が、間奏後、
ステージ最前に座り込む
パフォーマンスに
撃ち抜かれたファンも多いだろう。

しかし、浅井裕華は、度々、
『ハングリーライオン』
しかやっていないのを
気にしており、
12月7日のSHOW ROOMによると、
他曲もやりたいと
スタッフに言っていたそうだ。
それが叶ったことになる。

 

浅井裕華のアーティスト気質

筆者は、握手会で浅井裕華に
「公演でハングリーライオン以外で
 どこに注目してほしい?」
と聞いたことがある。
浅井裕華はじっくり考えたあと、
剥がされるときに
「暗い曲」と語った。

妹系だと思われがちな浅井裕華だが、
学級委員を歴任し、
そして、アーティスト気質なのだ!

そういえば、浅井裕華の
お母さんはデザイナーだそうだ。
姉は「ときわ藍」で
プロのマンガ家である。
周囲の影響を受けているのだろう。

 

アイドルの新たな挑戦と成長

アイドルグループと
そのパフォーマンスについて
考察する上で、個々のメンバーが
どのような役割を果たし、
どのように進化していくかに
注目することは、
その魅力を深く理解する上で
非常に重要である。
特に、彼女たちがパフォーマンスする
ユニットや楽曲の選択は、
その個性や成長を表現する
大切な要素となる。

あるメンバーが
一つの楽曲やユニットに長い間所属し、
そのパフォーマンスを繰り返していると、
ファンとしては
その彼女のイメージが固定化され、
その楽曲が彼女の代名詞と
なることもある。
一方、他のユニットへの挑戦は
そのメンバーが新たな試みを求め、
自身の可能性をさらに広げたいという
意欲の表れでもある。
それは、自身のアイドルとしての
成長を追求すること、
そしてファンに新たな魅力を
提供したいという
思いから来るものである。

また、新たな楽曲に挑戦することは、
そのメンバー自身の
アーティストとしての能力を試す
機会でもある。
それは、彼女が
どのような楽曲を通じて
どのような表現ができるのか、
その可能性を探求することである。
特に、新たな楽曲が
自身のこれまでのイメージとは
異なるものであった場合、
それは自身の新たな一面を発見し、
自己の多面性を追求する好機となる。

アイドルは、パフォーマンスにおいて
自身の魅力を最大限に引き出すために、
絶えず新たな挑戦を行っている。
それは、一つの楽曲に留まることなく、
多様な楽曲を通じて自身の可能性を広げ、
さらなる成長を目指すことである。
そして、その成長過程を見守ることは、
ファンとしての喜びであり、
彼女たちを支える原動力となる。

それぞれのメンバーが
自身の背景や個性を活かして、
自分自身を表現することで、
アイドルグループの
多様性と魅力は増していく。
それは、彼女たちが生まれ育った
環境、家族の影響、趣味や特技、
さらにはその日々の経験から
得られるエッセンスが、
彼女たち一人ひとりの
パフォーマンスやキャラクターを
形成するからである。

例えば、家族の中に芸術家がいる場合、
その影響を受けて
芸術性の高いパフォーマンスを
披露するメンバーもいるだろう。
それは、家族の影響を通じて
身につけたセンスや技術を活かすことで、
独自の魅力を発揮することができる。
また、学生時代にリーダーシップを
発揮していた経験があるメンバーは、
その経験を活かしてグループの中で
リーダーシップを取ることもあるだろう。
これらの個々の経験や背景が、
アイドルとしての彼女たちの魅力を
一層引き立てる。

アイドルという仕事は、
単にステージ上で
歌ったり踊ったりするだけではなく、
自身の個性や経験、
背景を活かして自身を表現し、
人々に感動や喜びを与える役割を
担っている。
それは、自身の過去や現在、
そして未来への期待を、
パフォーマンスを通じて
伝えることである。

アイドルが新たな楽曲に挑戦すること、
それは新たな自分自身を発見し、
さらなる成長を遂げるチャンスであり、
それを見守るファンとしての
喜びでもある。
アイドルとファンの間の
そうした関係性が、
アイドル文化の醍醐味であり、
その魅力を形成しているのである。

アイドルがパフォーマンスする
ユニットや楽曲の選択は、
彼女たち自身の個性や成長の過程を
表現する一方で、
それを通じてファンと共有する
絆を深める手段でもある。
それは、アイドルとファンの間の
コミュニケーションの一部であり、
その絆を深めることで、
アイドルとファンの間の絆が深まる。
そして、その絆がアイドル文化の
持続的な発展を支えているのである。

 

2018年11月6日『SKEフェスティバル』公演 浅井裕華は須田亜香里ポジ!

 

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【SKE48】SKEフェスティバル公演 浅井裕華は須田亜香里ポジ! 『君はラムネ』ではセンター!!

 

【SKE48】SKEフェスティバル公演 浅井裕華は須田亜香里ポジ! 『君はラムネ』ではセンター!!

 

2018年11月6日、
SKEフェスティバル公演で
後藤楽々が復帰した。
めでたく大学に合格したそうだ。
おめでとうございます!

そして同日の公演では、
須田亜香里と、須田亜香里のアンダーの

菅原茉椰が休演だった。
センター後藤楽々と
シンメの須田亜香里ポジは、

なんと浅井裕華だった。
さらに、この日も披露された
23thシングル『いきなりパンチライン』
のカップリングのチームE曲
『君はラムネ』でも須田亜香里ポジ、
つまり、センターだった。

浅井裕華が須田亜香里を好きなので
エモい、という人もいるだろう。
それでもいいと思うが、
私はそうではない。
単純にゆうかたんのポジションがいいのが
うれしいんだよーーーーー。

私は握手会で浅井裕華に
「公演でハングリーライオン以外で
 どこに注目して欲しい?」
と聞いたことがある。
浅井裕華は熟考した後
「暗い曲」と答えた。

浅井裕華は、小学生のうちに
アンダー3チーム制覇と
研究生公演センターという
快挙を達成した。
3チームの公演が変わってからも
3チームのアンダーに出演。
研究生公演、いや、
オーディション映像のときから、
この子は賢そうだな、
リーダーとしてSKEを
背負える人材だろうな、
と思っていた。

今でもたまに
「お披露目では2番手だった」
と語ることがある。
浅井裕華の快進撃は
いよいよ始まるのだろうか。

 

余談1
この日、上村亜柚香が
チームSから出演し、
ほのあゆカタンッが
チームE公演でそろい踏みした。

余談2
この日の後半MCは
伝言ゼスチャーゲームだった。
これは、どこかで誰かが
臨機応変にボケて
不正解にするようになってるんですかね(笑)。

 

追記

浅井裕華はこの後、
2019年7月発売の25thシングル
『FRUSTRATION』で初選抜入りを果たす。

2020年1月発売の26thシングル
『ソーユートコあるよね?』では
須田亜香里、古畑奈和、熊崎晴香に次ぐ
序列4位と大躍進を果たした。
江籠裕奈より上の序列である。
まあ、須田会メンバーとしての
論功行賞的な面も
多少あったのかもしれない(笑)。

言えるのは、たしかに本記事公演には
すでに、浅井裕華の快進撃は
始まっていたのだ!

 

2018年12月6日『SKEフェスティバル』公演 浅井裕華は『1994年の雷鳴』!

 

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高校数学系Youtubeに数学教育の闇を感じた話:わかりやすさと本質的理解のトレードオフ、教科書を読もう!

 

高校数学系Youtubeに数学教育の闇を感じた話:わかりやすさと本質的理解のトレードオフ、教科書を読もう!

 

高校数学を解説している
Youtubeをいくつか見てみた。

数学教育の闇を感じた。 

すべてとは言わないが、
『公式を紹介し、
 それを使って問題の解き方だけを
 解説するというスタイルで、
 教科書で説明されている
 「なぜ、そのような公式になるのか」
 には触れない』
ものも多い。
そして、そのような動画に
「わかりやすい」
という絶賛のコメントが
たくさんついていたりする。

Youtuberは、
わかりやすさと引換に、
再生回数、お金と引換に、

根本的な部分の解説を
捨てているのかもしれない。
難しい部分に触れないから
わかりやすく感じる。
もちろん、問題の解き方を覚え
目先のテストで

点を取ることにより、一時的に
数学嫌いを回避できる、などの
長所もあるのかもしれない。

しかし、高校数学レベルで
わけのわからないまま問題の解き方を
ただ覚えているような
人が
数学を使って
世の中を良くするような仕事を
するとは思えない。むしろ
「数学とはわけのわからぬまま
 公式と問題の解き方を
 丸暗記するもの」

といった誤った思い込みを増長させ、
目先のテストでは
点を取れるかもしれないが
長い目で見るとこの国の数学力は
低下するのではないかと思う。

このようなYoutuberの方々は、いったい、
何を目指していらっしゃるのでしょうか?

 

一方、2018年8月25日現在、
「なぜ、0!(階乗)=1」
という動画が17万回再生され、
「高校時代に教わりたかった」

「感動した」といった
絶賛のコメントがあふれている。
この方はP(パーミュテーション、順列)
C(コンビネーション、組合せ)
とは何かを根本から解説していて、
この方ご自身のご姿勢は素晴らしいと思う。

ただ、筆者に言わせれば、
上記のようなことは、
数学の検定教科書に書いてある。
教科書に書いてあることに対して、
「感動した」といった
コメントがあふれる。
高校では、予備校では
いったい、どのような
教育が行われているのだろう?

結論
教科書、または、
教科書の「理解」の部分を
よりわかりやすく解説している
参考書を理解しましょう!

 

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【SKE48】平田詩奈生誕祭2018:8期生辞退からの再加入、Sアンダーで見せた強い意志

 

【SKE48】平田詩奈生誕祭2018:8期生辞退からの再加入、Sアンダーで見せた強い意志

2018年8月23日
名古屋SKE48劇場では
平田詩奈の生誕祭が行われた。

平田詩奈はチームEの
ドラフト3期生研究生。
現在、大学1年生だ。

実は彼女は先だって
SKE8期生に合格していたが、
高校が芸能活動禁止だったため、
辞退していた。

お手紙はお母さんからだった。
平田詩奈は高校をやめてでも
SKEに入りたかったとのことで
お母さんとかなり言い争ったそうだ。
結局、高校を卒業したら

またチャレンジしよう、と思ったそうだ。

平田詩奈はチームE付きの研究生だが、
8月18日にチームS公演でも
アンダーデビューを果たしている。
SKEではチーム付きの研究生が
他チームに出演するケースは少ない。
(白井琴望がK2付きながら
 Sアンダーにでたくらいかな?)
彼女の意志の強さは
S公演出演で感じ取れたが、
こういう背景もあったのですね。

 

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【SKE48】松本慈子が大学生になることを発表:文系大学の存在意義とSKE在籍の社会的評価を考える

 

【SKE48】松本慈子が大学生になることを発表:文系大学の存在意義とSKE在籍の社会的評価を考える

 

名古屋SKE48のドラフト1期生
チームSの松本慈子が
2018年4月8日の公式ブログにて
大学生になることを発表した。

アイドルが大学に行くな、
とは思わない。
現在の日本の支配的な価値観では、

大学に行こうと思うのも
しかたがない。
ただ、現在の日本の価値観、
大学制度について意見を述べたい。

まず、松本慈子は公式ブログで
知識を身につけ視野を広げたい、
学んだことを活動で生かしたい
旨を述べている。

しかし、松本慈子は文系と思われるが、
文系の大学で学べることなどは
ほとんどは本で学べる。
そもそも、

文系の大学の大半は不要だと思う。
旧帝大と早慶くらいでいいのではないか。

わざわざ教授が生で講義をして
そこに人が集まる。
生徒は授業料を払い、
国も大学に補助金を出す。
この出版とネットが発達した時代に
壮大なお金と労力の無駄である。

法学や経済学などメジャーな科目は
ほとんどの大学の学部を廃止して
大卒認定試験でも行えば
いいのではないか。
憲法上、
大学には学問教授の自由があるが、
大半の大学の学生は、
「自由」以前の基本的な部分すら
マスターせずに卒業するだろう。

しかも文系の場合、
大学で学んだことが
社会に出てから
付加価値を生み出すことは
少ないのではないか。
稼ぐためのスキルが身につかない。
数百万円の授業料と
4年間という時間を費やす割に
コスパが悪すぎる。

特に文系の場合、
スキルが身につかない
にもかかわらず

「大学は出たほうがいい」
という価値観があるのは、
おそらく、企業や日本人の多くが
「大卒」を評価するからだろう。
しかし、その評価の実は、
特に文系の場合、
大学で学んだ内容ではなく、
「大学に入り4年間通った労力」
という内容に乏しいものだ。

大学での人間関係が大切、
と思う人もいるかも知れない。
しかし、SKEという肩書があれば、
並の大学で得られる人間関係よりも
はるかに有意義な人間関係が
得られると思う。

なにもスキルを身につけなかった
大卒よりも
その期間SKEに在籍したことが
評価される世の中であることを願う。
筆者は、そのくらいの集団だと思って
SKEを推している。

 

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【SKE48】チームS公演のセンターは井上瑠夏 :正統派アイドルとしては十分もチームSの伝統は?

 

【SKE48】チームS公演のセンターは井上瑠夏 :正統派アイドルとしては十分もチームSの伝統は?

 

井上瑠夏の正統派ポテンシャル

名古屋SKE48の
2018年4月5日のチームS公演の

センターポジションは
8期生の井上瑠夏だった。

チームSの本来の
センターポジションは

松井珠理奈である。

松井珠理奈が不在のときは
7期生の町音葉がアンダーを努めている。
ビジュアルがちょっと
前田敦子に似ているかもしれない。

町音葉も出られないときは
6期生の北川綾巴が
センターに入ったことがある。
前チームSでは、研究生ながら、
松井珠理奈のアンダーで
センターポジションに入っていた人だ。

さて、5日のS公演は、
松井珠理奈も町音葉も北川綾巴も
不在だった。
そこで加入1年半、8期生の
井上瑠夏が抜擢された。

井上瑠夏は、
ラブ・クレッシェンドにも
抜擢されている。

3月18日の横浜アリーナでの
全国握手会の
ミニライブの
『無意識の色』では、

不在だった高柳明音の代わりに
選抜メンバーの中で
パフォーマンスをしていた。
正統派アイドルとしての
ポテンシャルも高そうだし、
SHOWROOMなどを見ていても
AKBグループ特有の出世を
できる人ではないかと思う。
まあ、今回のチームS公演
センター抜擢は順当かも知れない。

 

初代、2代目チームSのセンター

上記のように前チームSは
研究生の北川綾巴を
センターのアンダーに抜擢した。
ただし、その前の初代チームSは
センター松井珠理奈のアンダーは
アイドル性という面では???の
鬼軍曹、桑原みずきが努めていた。
桑原みずき卒業後、
木﨑ゆりあがセンターに入ったが
初アンダーの日の公演、ぼそっと
「ほとんど寝ていない」
と言ったと記憶している。
昔のチームSはそういうチームだったのだ。

この日、正規メンバーの欠員が多く、
野島樺乃まで一部出演になったのを受け
公演終盤、副リーダーの犬塚あさなが
「ピンチはチャンス」
と初代チームSリーダー、
平田璃香子のキャッチを引用した。

私の記憶では犬塚あさなは
チームS初アンダーの時
(2012年5月5日らしい)
チームSの雰囲気に圧倒されたのか
キャッチフレーズの最後の
「ワンワン」を言えなかったと思う。
松村香織はかつて
「S公演に出るのが決まったときは
 ご飯が喉を通らなかった」
と語っていた。
そしてS3rd制服の芽公演を
出禁になったらしい。

犬塚あさなが平田璃香子のキャッチを
引用したのは、他意はなかったのか、
それとも、
「昔のSはもっと厳しかったな」
と思っていたのか。
どうだろう。 

 

組閣をしなかった英断:野村実代、井上瑠夏、北川愛乃の加入はチームSの希望

AKBリクアワ2019『思い出以上』松井珠理奈の両脇は井上瑠夏、野村実代!

 

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【SKE48】市野成美がなぜ古典が得意だったか:古典の特性、SKEの環境、アイドルとしての発信

 

【SKE48】市野成美がなぜ古典が得意だったか:古典の特性、SKEの環境、アイドルとしての発信

 

名古屋SKE48の5期生、
2018年3月末での卒業を発表している
市野成美は高校で
古典が得意だったらしい。
テストでは98点で
クラス1位だったこともあるそうだ。

市野成美はたしか、
中学校の定期テストでは
5教科合計で100点台だったと
言っていた。

今回はなぜ市野成美が
高校で古典が得意だったかを考えたい。

 

古典という科目の特性

古文、漢文は、中学校では
文法、句法に深入りせず、
高校から文法、句法を
本格的に学習すると思う。
たとえば、英語は
中学レベルの文法に抜けがあると
高校英語の理解にかなり不利である。
数学も、計算が遅い、
「関数とは何か」などについての
理解が弱い、など、
中学レベルの理解に抜けがあると
高校数学の理解にかなり不利である。
理科、社会もほぼ同様だろう。
知識ゼロで高校の授業を受けても

理解できないわけではないが
中学までの習熟度が高いほど
高校の内容の定着に有利だろう。
中学までの内容が
高校での理解にあまり影響を及ぼさない
古文、漢文という科目だったからこそ、
得意科目になったのではないだろうか。

 

SKEという環境

SKE48の1期生には
名古屋の名門中高一貫女子校に
通っていたメンバーが3人いたそうだ。
2014年からの現行チームEで
リーダーを務める須田亜香里も
中学受験を経て名門女子校に入学した。
やはりチームEに在籍していた
柴田阿弥も須田亜香里の学校の
後輩だったらしい。
さらに、チームEにあとから入ってきた
後藤楽々は、須田亜香里に
「かなりの名門校」と言われたことがある。
このような環境に身を置くことにより、
テストで点を取れる習慣が身につき、
テストで点を取る意欲が
増したのではないだろうか。
人の成長に、周囲の環境は大切だと思う。

 

ブログ、SNS、メールでの発信

SKEに在籍していると
ブログ、SNS、メールなど
各種ツールで発信することになる。
脳科学によると、
インプットよりアウトプットのほうが
インプット、記憶の定着にも
有効らしい。
脳が「よく使う生きるのに必要な情報」
と判断するのだそうだ。
これらの発信により、
たとえば、言語を司る
脳の何らかの部分が発達したのでは
ないだろうか。

古典という、
中学までの内容の習熟度が
高校での理解、記憶の定着に
あまり影響を及ぼさない科目であり、
SKEの名門校に通う人が何人もいる
環境に身を置き、
日常的にブログ、MCなどで
発信をすることにより
言語能力を鍛えていたことが
市野成美が古典が得意科目になった
要因の一部だったように考えるが
どうだろう?

 

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【感想・書評】努力不要論(フォレスト出版、中野信子):中長距離走も好きこそものの上手なれ?

 

【感想・書評】努力不要論(フォレスト出版、中野信子):中長距離走も好きこそものの上手なれ?

 

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『努力不要論』の著者、評判

筆者はフジテレビの
ホンマでっか!?TVにも
出演している脳科学者の中野信子さん。
ただし、この本では
科学者達の厳しい目を経た
論文の引用などは
あまり見られないという
批判もあるようだ。

 

努力と「好きこそものの上手なれ」

話はまず、前AKBグループ総監督、
高橋みなみさんの有名な発言
「努力は必ず報われる」
から始まる。
それに対し、明石家さんま氏の
「好きだからやってるだけよ、
 で終わっといたほうがええね。
 これが報われるんだと思うと
 良くない。
 こんだけ努力してるのに何でって
 なると腹が立つやろ。」
という考えが紹介されている。
私は「努力を努力と思う人は二流」
と言った人を知っている。
明石家さんま氏に近い考えで、
「好きこそものの上手なれ」の人が
一流ということなのだろう。

中長距離走も
たしかに苦しいこともあるにせよ、
好きで楽しんでいる人が強い、
ということであろう。
それは、
純粋に走るのが楽しい、
でもいいかもしれない。
トレーニングに仮説があって、
それで記録が伸びるのが楽しい
というものでもいいかもしれない。

受験勉強も
同じような心の持ちようで
ありたいものである。

ただ、ここで
たかみなさんを弁護しなければならない。
たかみなさんは
AKBグループ総監督の立場上

AKBグループのメンバーに
努力してもらわなければ困る人だった。
本人がそう信じているかどうかはともかく
「努力は必ず報われる」
といったスローガンを
掲げる必要があったのだろう。
そして、特にSKEのメンバーに多いが、
努力の方法が適切ならば、
AKBグループではアイドルとして
ある程度成功できそうなのも事実である。

 

努力を脳内ホルモンから考える

日本人は幸せ脳内ホルモンである
セロトニンが少ない傾向があり、
不安になりがちで慎重、
という事実は自覚しておくと
いいかもしれない。
筆者は、だから日本人は
0から1を作るような
イノベーションは苦手なのだと
示唆している。

「努力不要論」という題名は
おそらく売るために出版社が
つけたもので、著者の本意では
ないのかもしれない。
論文の引用などは
あまり見られないものの
それほどおかしなことが
書いてあるとも思わない。
表紙にあるように
「がんばってるのに報われない」
と思ったら読むと
新たな気づきが得られるのでは
ないだろうか。

 

『努力不要論』とニーチェ

 ニーチェは、「力への意志」を重視した。それは、自らの潜在能力を最大限に発揮し、困難に立ち向かう勇気と情熱である。高橋みなみの発言は、この「力への意志」を肯定するものと捉えることができる。努力を重ねることで、自らの限界に挑戦し、成長を遂げようとする姿勢は、まさにニーチェが説く「超人」の資質と言えるだろう。

 しかし、ニーチェは同時に、「運命愛」の概念も提唱した。それは、自分に与えられた運命を肯定し、愛することである。明石家さんまの考えは、この「運命愛」に通じるものがある。好きなことをするのは、自分の運命に従っているからだ。そこには、外的な報酬への執着はない。自分の人生を肯定し、自分の道を歩むことこそが重要なのだ。

 ニーチェは、「ニヒリズム」の危険性についても警鐘を鳴らした。それは、従来の価値観の崩壊により、虚無感に陥ることである。「努力しても報われない」という考えは、まさにこの「ニヒリズム」の表れと言えるだろう。目的を見失い、努力の意味を疑うこと。それは、「力への意志」を削ぐことにつながりかねない。

 ただし、ニーチェは「価値の転換」の必要性も説いた。既存の価値観に囚われるのではなく、新たな価値を創造することが重要だと考えたのだ。「好きこそものの上手なれ」という言葉は、この「価値の転換」を示唆しているのかもしれない。努力そのものを目的化するのではなく、自分の情熱に従って行動することこそが、真の意味での成功につながるのだ。

 また、ニーチェは「永劫回帰」の思想も提唱した。全ての出来事は無限に繰り返されるという考え方だ。この観点からすれば、努力と報われることは、永遠のサイクルの一部に過ぎない。重要なのは、そのサイクルの中で、自分の人生をどう生きるかということだ。好きなことに打ち込むことは、そのサイクルに意味を与える営みと言えるだろう。

 そして、ニーチェは「パースペクティヴィズム」の重要性も説いた。物事には多様な見方があり、絶対的な真理などないという考え方だ。高橋みなみと明石家さんまの発言は、成功に対する異なる視点を示している。どちらが正しいかを判断するのではなく、多様な見方があることを認識することが大切なのだ。

 ニーチェの思想を踏まえれば、「努力は必ず報われる」と「好きだからやってるだけ」は、対立するものではなく、むしろ補完し合う関係にあると言えるだろう。「力への意志」と「運命愛」。この二つのバランスを取ることが、真の意味での「一流」への道なのかもしれない。

 自分の情熱に従い、努力を重ねる。しかし、その努力を苦役と捉えるのではなく、自分の運命の一部として愛する。そうした姿勢こそが、ニーチェが説く「超人」の在り方なのだ。高橋みなみと明石家さんまの発言は、そうした生き方への異なるアプローチを示していると言えよう。

 私たちには、この二つの視点を統合し、自分なりの人生観を確立することが求められている。「努力不要論」という書籍は、そのための重要な示唆を与えてくれる。ニーチェの思想を通して、この書籍を読み解くことで、私たちは自分自身の「力への意志」と「運命愛」を見つめ直すことができるはずだ。

 

『努力不要論』とプラグマティズム

 「努力は必ず報われる」という高橋みなみ氏の発言と、それに対する明石家さんま氏の考えは、努力の意義と目的をめぐる実践的な問いを提起していると言えるだろう。

 まず、努力の意義は、それがもたらす具体的な結果や効用によって評価されるべきだと考えられる。高橋氏の発言は、努力という行為自体に価値を見出し、それが必ず報われるという確信を表明したものと捉えることができる。一方、明石家氏の考えは、努力の目的を外発的な報酬に求めることの危険性を指摘しています。つまり、努力の真の価値は、それを通じて得られる内発的な満足感や成長にあるという見方だ。

 また、明石家氏の考えは、芸能界という実社会での経験に裏打ちされた実践知だと言えるだろう。「好きだからやってるだけ」という姿勢は、努力を苦役ではなく、自発的な活動として捉える視点を提供している。これは、外発的な動機づけに頼るのではなく、内発的な動機づけを重視する生き方につながる考え方だと言える。

 さらに、「努力は必ず報われる」という発言は、努力と報酬の関係を単純化しすぎているきらいがある。現実の世界では、努力が直接的に報われるとは限らない。むしろ、状況に応じて努力の在り方を柔軟に変化させ、時には努力を控えることも必要になるだろう。明石家氏の考えは、こうした状況適応的な思考の重要性を示唆していると言える。

 加えて、「努力は必ず報われる」という発言は、努力という行為を通じて社会的成功を約束するものだと捉えることができる。しかし、この考え方は、努力が報われない人々を排除する危険性を孕んでいる。一方、「好きだからやってるだけ」という姿勢は、個人の内発的な動機を尊重し、多様な生き方を許容する社会の実現につながるものだと言えるだろう。

 ただし、明石家氏の考えが示唆に富むものであるとしても、それが全ての状況に当てはまるわけではない。時と場合によっては、外発的な動機づけが必要になることもあるだろう。大切なのは、状況に応じて柔軟に考え方を変化させ、より良い結果を生み出すための実践的な知恵を磨いていくことだと言える。

 以上のように、高橋氏と明石家氏の発言は、努力の意義と目的をめぐる実践的な問いを提起していると言える。明石家氏の考えは、内発的な動機づけを重視し、状況適応的な思考の重要性を示唆するものだと評価できるだろう。また、その考え方は、多様な生き方を許容する民主的な社会の実現につながる可能性を秘めている。ただし、こうした考え方を絶対化するのではなく、状況に応じて柔軟に思考を変化させていくことが求められる。私たちには、努力の在り方をめぐる実践的な知恵を磨き、より良い結果を生み出すための不断の探究が求められているのだ。そのためには、自らの経験を省みつつ、他者との対話を通じて視野を広げていくことが欠かせない。

 

『努力不要論』とフランクフルト学派

 「努力は必ず報われる」という高橋みなみの発言は、一見すると個人の意欲を奨励するポジティブなメッセージのようだが、実は「成果主義」という支配的なイデオロギーを再生産する言説だと言えるだろう。

 まず、「努力」という概念そのものが、資本主義社会における「業績」の追求と結びついている。アドルノとホルクハイマーが指摘したように、啓蒙の理念は逆説的に「道具的理性」を生み出し、個人を生産性の論理に従属させる。「努力」の称揚もまた、そうした「道具化」の一部なのだ。

 また、「報われる」という言葉には、「努力」に対する「見返り」を求める功利主義的な発想が潜んでいる。これは、人間の活動を「投資」と「収益」の関係に還元する、新自由主義的なイデオロギーの表れだと言えよう。フランクフルト学派が批判したように、文化産業は人々の欲望を商品化し、「幸福」を消費可能なものとして提示するのだ。

 一方、明石家さんまの「好きだからやってるだけ」という言葉は、一見するとこうした「成果主義」への抵抗を示しているように見える。「好き」という感情に基づく活動は、「道具的理性」に回収されない自由な表現とも解釈できるだろう。ハーバーマスが重視したように、「コミュニケーション的行為」には、システムの論理を超越する可能性があるのだ。

 ただし、「好きこそものの上手なれ」という言葉には、別の問題が潜んでいる。それは、「上手」であることを称揚する「能力主義」のイデオロギーだ。個人の能力を競争的に評価する社会では、「好き」という感情さえも「人的資本」として動員されかねない。フロムが警告したように、現代社会における自由は、市場の要請に適合的であることを求める「強制」でもあるのだ。

 したがって、私たちはこの二つの言説をどちらか一方に与することはできない。むしろ、両者に共通する「成果主義」と「能力主義」のイデオロギーを批判的に分析する必要がある。アドルノの「否定弁証法」が示唆するように、私たちは既存の価値観の対立を乗り越え、新たな思考の地平を切り拓かねばならないのだ。

 「努力」と「好き」という言葉は、私たち自身が労働を通じて「疎外」されている状況を反映している。高橋みなみと明石家さんまの発言を通して、私たちは自らが「業績」と「能力」の物差しで評価されていることを自覚せねばならない。そのとき初めて、労働の「解放」の可能性が開かれるだろう。「努力不要論」への道は、私たち自身の「疎外」からの脱却でもあるのだ。

 私たちは、高橋みなみと明石家さんまという「テクスト」を批判的に読み解くことで、「成果主義」と「能力主義」の呪縛から自由になる道を模索せねばならない。彼らの言葉に潜む「亀裂」を手がかりに、私たちは新たな希望を紡ぎ出すことができるのかもしれない。「努力」と「好き」の背後には、私たちの「解放」への道標が隠されているのだ。

 

『努力不要論』とハイデガー

 高橋みなみ氏の「努力は必ず報われる」という言葉と、明石家さんま氏の「好きだからやってるだけよ」という言葉は、一見すると対照的に見えるが、ハイデガーの思想を通して見ると、両者はともに人間の存在の本質を照らし出しているように思われる。

 人間は「世界内存在」として、常にすでに何らかの意味連関の中に投げ込まれている。私たちは、自らが属する特定の歴史的・文化的文脈の中で、固有の可能性を引き受けながら生きているのだ。高橋氏の言葉は、このような世界の中で努力することの意味を問うている。

 「努力は必ず報われる」という言葉は、一見すると単なる励ましのように聞こえるかもしれない。しかし、その背後には、努力することそのものに価値を見出す態度がある。それは、ハイデガーが重視した「本来的な自己」の在り方に通じるものだ。本来的な自己とは、世間の価値観に流されることなく、自らの存在の意味を問い直し、固有の可能性を引き受ける存在なのだ。

 一方、明石家氏の言葉は、このような努力の在り方に一石を投じている。「好きだからやってるだけよ」という言葉は、努力をすること自体が目的化してしまう危険性を指摘している。ハイデガーもまた、私たちが日常的に没入している世界を「Das Man(世人)」と呼び、その非本来性を批判した。世人とは、自らの存在の真理に目覚めることなく、ただ漠然と日々を過ごす人々のことだ。

 明石家氏の言葉は、このような世人の態度に警鐘を鳴らしている。「好きだからやる」ということは、自らの情熱に忠実に生きることを意味する。それは、外的な報酬や評価に囚われることなく、自分自身の存在の意味を問い直すことなのだ。ここには、ハイデガーが説いた「本来的な自己」の在り方が見て取れる。

 しかし、だからと言って、努力することの意味が否定されるわけではない。むしろ、明石家氏の言葉は、努力の在り方そのものを問い直すことを促している。「好きこそものの上手なれ」という言葉は、単に才能だけで物事が成し遂げられるという意味ではない。それは、自らの情熱に基づいて、真摯に努力することの大切さを示唆しているのだ。

 ハイデガーは、芸術作品の本質を「存在の真理の開示」として捉えた。芸術家は、自らの存在を賭けることで、世界の本質を照らし出すのだ。高橋氏と明石家氏の言葉もまた、このような芸術的な営みに通じるものがある。彼らは、アイドルや芸人という役割を通して、人間の存在の真理を開示しようとしているのだ。

 私たちは、彼らの言葉から、努力と情熱の本質的な意味を学ぶことができる。それは、単なる成功のための手段ではなく、自らの存在の意味を問い直し、本来的な自己を取り戻すための契機なのだ。「努力を努力と思う人は二流」という言葉は、このような実存的な意味を持った言葉なのである。

 高橋氏と明石家氏の言葉は、一見すると対立しているように見えるが、その深層では、人間の存在の真理を照らし出す光を放っている。私たちは、この光に導かれることで、自らの生の在り方を根底から問い直すことができるのだ。彼らの言葉は、私たち一人一人に、本来的な自己を取り戻す勇気を与えてくれるのである。

 

『努力不要論』とデリダ

 私は先ほど、「努力」と「好き」という二項対立を提示し、「好き」の優位性を主張した。高橋みなみ氏の「努力は必ず報われる」という言葉は、努力と報酬の直接的な因果関係を示唆しているのに対し、明石家さんま氏の発言は、「好き」であることが努力の動機づけとなり、報酬を期待しないことが重要だと述べている。

 しかし、この二項対立自体を脱構築的に読み解く必要がある。そもそも「努力」と「好き」は対立する概念なのだろうか。「好き」であるからこそ、人は自発的に努力するのではないか。逆に、「努力」を強いられた場合、それは本当の意味での「努力」と言えるのだろうか。「努力」と「好き」は、実は相互に依存し、絡み合った関係にあるのかもしれない。

 また、「好きだからやってるだけ」という言葉は、「好き」であることが努力の必要性を消し去るかのように響く。しかし、「好き」であるからこそ、人はより深く、より真剣に取り組むことができるのではないか。「好き」は努力を不要にするのではなく、努力に新たな意味を与えるのだ。

 さらに、「報われる」ことへの期待の是非についても考えなければならない。「報われる」ことを期待しないことが重要だと言うが、それは「報酬」の意味を狭く捉えすぎているのではないか。努力によって得られるものは、外的な報酬だけではない。自己の成長、新たな発見、他者との繋がりなど、様々な形で努力は「報われる」のだ。

 「一流」「二流」という言葉も問題含みかもしれない。これは努力と報酬の関係性によって人を序列化する発想だが、そもそも人を「一流」「二流」と単純に分類することは可能なのだろうか。人は多面的で複雑な存在であり、ある側面では「一流」でも、別の側面では「二流」かもしれない。このような二分法的な評価は、人間の多様性を見過ごしてしまう危険性がある。

 以上のように、様々な二項対立――努力/好き、報われる/報われない、一流/二流など――を脱構築することで、努力と報酬、好きと努力の関係性について、より複雑で重層的な理解に到達することができる。これらの概念は決して単純に対立するものではなく、相互に影響し合い、時には反転し、絡み合っている。そのことを認識することが、人間の営みの本質を捉える上で不可欠なのである。

 

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【SKE48】 松井珠理奈のプロレス愛:「にわか」の重要性、「にわか」批判への一考察

 

【SKE48】 松井珠理奈のプロレス愛:「にわか」の重要性、「にわか」批判への一考察

 

名古屋SKE48の松井珠理奈が無事
新日本プロレス1.4東京ドーム大会の
アンバサダーを勤め上げた。
試合終了後には
ミラノ・コレクションA.T.氏から
「アンバサダーとしての働きっぷりが
 過去最高。広め方が凄い。
 レベルが違う。」
とお褒めの言葉を頂くほどであった。
Twitterでのプロレスコーデ、
各種メディアへの露出。

一方、試合中にリアルタイムで
Twitterを追うと
放送席の松井珠理奈の発言に
専門性を求めるツイートも散見された。
1.4以前にも松井珠理奈を
「にわか」呼びする
自称プロレスファンもいたようだ。

そのような自称プロレスファンには
次の本を読むことをオススメしたい。

☆読んでいない本について堂々と語る方法(ちくま学芸文庫)

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ふざけたような題名であるが
著者のピエール・バイヤール氏は
パリ第八大学の教授である。

著者はまず、ある小説に登場する
350万冊の蔵書を持つ
図書館の司書を例に挙げる。
司書は「有能な司書になる秘訣は
書名と目次以外は読まないこと、
内容に立ち入っては司書失格」
と語る。
司書はそうすることによって
350万冊もの蔵書のそれぞれの
「全体の中での位置づけ」
を把握するのである。
著者は「教養とは要素を
他の要素との関係で位置づけること」
「外部は内部より大切である」
と述べる。

松井珠理奈は10年近く
SKE48のエースであり続け、
AKBグループ総選挙3位の
トップアイドルである。
昨年末の紅白歌合戦では
メドレーの1曲目では
投票によりセンターを務めた。
劇場公演やコンサートでのMC、
総選挙でのスピーチなど、
いわばマイクパフォーマンスも重要だ。
そしてアイドルに感情移入するにも
ストーリー性が必要だとも言われる。
さらにSKE48というグループは
肉体を駆使したダンスパフォーマンスに
強いアイデンティティを持つ。

松井珠理奈を「にわか」呼びする方が
どのような「外部」にいるかは
知らない。
が、果たして、

松井珠理奈以上にプロレスを
何かとの関係で「位置づける」力を
お持ちなのであろうか?

また、著者は、アフリカ西海岸の
ティヴ族に『ハムレット』を説明した
人類学者を例に挙げる。
ティヴ族とイギリスでは
あまりにも文化、習慣が違うので
ティヴ族の人々は『ハムレット』に
出てくるあらゆる場面に疑問を抱く。
ティヴ族は『ハムレット』を
一行も読んだことはないが、
読んでいない、かつ、
文化を異にするがゆえに
『ハムレット』についてコメントする
恰好の立場にあると著者は述べる。
そしてそのハムレット批評は
少数派ではあるが、活発な潮流に近い
立場に身を置いていると
述べる。

最後に著者は、
「1冊の本を読むのに
 10分すら要らない。」

(教養のおかげで本質を
 素早く察知できるから)
「批評の唯一にして真なる対象は
 作品でなく自分自身である」
「重要なのは自分自身について語ること」
と述べる。

プロレスファンにしろSKEファンにしろ
それ自体についての知識の少ない
ご新規さんを「にわか」扱いするのは
自身の教養の欠如を
露呈させる行為なのだ。

 

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【SKE48】都築里佳生誕祭2017:Sの古株卒業の喪失感を埋める7D2、8期の希望

 

【SKE48】都築里佳生誕祭2017:Sの古株卒業の喪失感を埋める7D2、8期の希望

 

2017年11月24日
名古屋SKE48のチームS公演で
ぴよすこと都築里佳の
生誕祭が行なわれた。

正直、ぴよすという人を知って
何年かは、なんだこいつ、
と思っていた。
しかし、今では愛おしい。
彼女も成長したのだろう。
SKEってすごいな(笑)。

まあ、それはいいとして、
今日は北川綾巴が不在で、
野島樺乃が綾巴ポジだったと思う。
野島樺乃は本来、
同じ7D2のまゆらー
(菅原茉椰、小畑優奈、後藤楽々)
あたりと出世争いを
していなければならない
逸材のはずである。
特定の誰かを批判するつもりは
全くないが、人材育成に関しては、
KⅡ、Eが優れていたという
ことだろう。

優秀な指導者が常駐しない中、
チームSには8期生が3人昇格した。
井上瑠夏、北川愛乃、野村実代だ。
北川愛乃はチームSに対して
「ガムシャラさがあまり見えない」
と言い放ったという。
井上瑠夏、野村実代は、
あくまでも個人的な意見だが
「正統派アイドル」としての
ポテンシャルは、SKE史上
屈指なのではないだろうか。
このイキのいい3人の昇格により
7D2のお尻に火が着いたと思う。
8期昇格以来、S公演は
明らかに良くなったと思う。

そしてこの日、
8期生の坂本真凛が
アンダーデビューを果たした。
研究生公演や握手会のステージで
見せる全力パフォーマンスを
S公演でも見せてくれた。
やったね!
もう1人、8期生はカワウソこと
仲村和泉が出演していた。

チームSは、大矢真那と
後藤理沙子の卒業が決まっている。
8期生5人の希望によって
喪失感を乗り越えようとしている
この日のチームSは、
1期生の大量離脱前後に
5期生が常時5人前後出演していた
S3rd末期にも
似ていたような気もする。

 

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