【感想・書評】努力不要論(フォレスト出版、中野信子):中長距離走も好きこそものの上手なれ?

 

【感想・書評】努力不要論(フォレスト出版、中野信子):中長距離走も好きこそものの上手なれ?

 

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『努力不要論』の著者、評判

筆者はフジテレビの
ホンマでっか!?TVにも
出演している脳科学者の中野信子さん。
ただし、この本では
科学者達の厳しい目を経た
論文の引用などは
あまり見られないという
批判もあるようだ。

 

努力と「好きこそものの上手なれ」

話はまず、前AKBグループ総監督、
高橋みなみさんの有名な発言
「努力は必ず報われる」
から始まる。
それに対し、明石家さんま氏の
「好きだからやってるだけよ、
 で終わっといたほうがええね。
 これが報われるんだと思うと
 良くない。
 こんだけ努力してるのに何でって
 なると腹が立つやろ。」
という考えが紹介されている。
私は「努力を努力と思う人は二流」
と言った人を知っている。
明石家さんま氏に近い考えで、
「好きこそものの上手なれ」の人が
一流ということなのだろう。

中長距離走も
たしかに苦しいこともあるにせよ、
好きで楽しんでいる人が強い、
ということであろう。
それは、
純粋に走るのが楽しい、
でもいいかもしれない。
トレーニングに仮説があって、
それで記録が伸びるのが楽しい
というものでもいいかもしれない。

受験勉強も
同じような心の持ちようで
ありたいものである。

ただ、ここで
たかみなさんを弁護しなければならない。
たかみなさんは
AKBグループ総監督の立場上

AKBグループのメンバーに
努力してもらわなければ困る人だった。
本人がそう信じているかどうかはともかく
「努力は必ず報われる」
といったスローガンを
掲げる必要があったのだろう。
そして、特にSKEのメンバーに多いが、
努力の方法が適切ならば、
AKBグループではアイドルとして
ある程度成功できそうなのも事実である。

 

努力を脳内ホルモンから考える

日本人は幸せ脳内ホルモンである
セロトニンが少ない傾向があり、
不安になりがちで慎重、
という事実は自覚しておくと
いいかもしれない。
筆者は、だから日本人は
0から1を作るような
イノベーションは苦手なのだと
示唆している。

「努力不要論」という題名は
おそらく売るために出版社が
つけたもので、著者の本意では
ないのかもしれない。
論文の引用などは
あまり見られないものの
それほどおかしなことが
書いてあるとも思わない。
表紙にあるように
「がんばってるのに報われない」
と思ったら読むと
新たな気づきが得られるのでは
ないだろうか。

 

『努力不要論』とニーチェ

 ニーチェは、「力への意志」を重視した。それは、自らの潜在能力を最大限に発揮し、困難に立ち向かう勇気と情熱である。高橋みなみの発言は、この「力への意志」を肯定するものと捉えることができる。努力を重ねることで、自らの限界に挑戦し、成長を遂げようとする姿勢は、まさにニーチェが説く「超人」の資質と言えるだろう。

 しかし、ニーチェは同時に、「運命愛」の概念も提唱した。それは、自分に与えられた運命を肯定し、愛することである。明石家さんまの考えは、この「運命愛」に通じるものがある。好きなことをするのは、自分の運命に従っているからだ。そこには、外的な報酬への執着はない。自分の人生を肯定し、自分の道を歩むことこそが重要なのだ。

 ニーチェは、「ニヒリズム」の危険性についても警鐘を鳴らした。それは、従来の価値観の崩壊により、虚無感に陥ることである。「努力しても報われない」という考えは、まさにこの「ニヒリズム」の表れと言えるだろう。目的を見失い、努力の意味を疑うこと。それは、「力への意志」を削ぐことにつながりかねない。

 ただし、ニーチェは「価値の転換」の必要性も説いた。既存の価値観に囚われるのではなく、新たな価値を創造することが重要だと考えたのだ。「好きこそものの上手なれ」という言葉は、この「価値の転換」を示唆しているのかもしれない。努力そのものを目的化するのではなく、自分の情熱に従って行動することこそが、真の意味での成功につながるのだ。

 また、ニーチェは「永劫回帰」の思想も提唱した。全ての出来事は無限に繰り返されるという考え方だ。この観点からすれば、努力と報われることは、永遠のサイクルの一部に過ぎない。重要なのは、そのサイクルの中で、自分の人生をどう生きるかということだ。好きなことに打ち込むことは、そのサイクルに意味を与える営みと言えるだろう。

 そして、ニーチェは「パースペクティヴィズム」の重要性も説いた。物事には多様な見方があり、絶対的な真理などないという考え方だ。高橋みなみと明石家さんまの発言は、成功に対する異なる視点を示している。どちらが正しいかを判断するのではなく、多様な見方があることを認識することが大切なのだ。

 ニーチェの思想を踏まえれば、「努力は必ず報われる」と「好きだからやってるだけ」は、対立するものではなく、むしろ補完し合う関係にあると言えるだろう。「力への意志」と「運命愛」。この二つのバランスを取ることが、真の意味での「一流」への道なのかもしれない。

 自分の情熱に従い、努力を重ねる。しかし、その努力を苦役と捉えるのではなく、自分の運命の一部として愛する。そうした姿勢こそが、ニーチェが説く「超人」の在り方なのだ。高橋みなみと明石家さんまの発言は、そうした生き方への異なるアプローチを示していると言えよう。

 私たちには、この二つの視点を統合し、自分なりの人生観を確立することが求められている。「努力不要論」という書籍は、そのための重要な示唆を与えてくれる。ニーチェの思想を通して、この書籍を読み解くことで、私たちは自分自身の「力への意志」と「運命愛」を見つめ直すことができるはずだ。

 

『努力不要論』とプラグマティズム

 「努力は必ず報われる」という高橋みなみ氏の発言と、それに対する明石家さんま氏の考えは、努力の意義と目的をめぐる実践的な問いを提起していると言えるだろう。

 まず、努力の意義は、それがもたらす具体的な結果や効用によって評価されるべきだと考えられる。高橋氏の発言は、努力という行為自体に価値を見出し、それが必ず報われるという確信を表明したものと捉えることができる。一方、明石家氏の考えは、努力の目的を外発的な報酬に求めることの危険性を指摘しています。つまり、努力の真の価値は、それを通じて得られる内発的な満足感や成長にあるという見方だ。

 また、明石家氏の考えは、芸能界という実社会での経験に裏打ちされた実践知だと言えるだろう。「好きだからやってるだけ」という姿勢は、努力を苦役ではなく、自発的な活動として捉える視点を提供している。これは、外発的な動機づけに頼るのではなく、内発的な動機づけを重視する生き方につながる考え方だと言える。

 さらに、「努力は必ず報われる」という発言は、努力と報酬の関係を単純化しすぎているきらいがある。現実の世界では、努力が直接的に報われるとは限らない。むしろ、状況に応じて努力の在り方を柔軟に変化させ、時には努力を控えることも必要になるだろう。明石家氏の考えは、こうした状況適応的な思考の重要性を示唆していると言える。

 加えて、「努力は必ず報われる」という発言は、努力という行為を通じて社会的成功を約束するものだと捉えることができる。しかし、この考え方は、努力が報われない人々を排除する危険性を孕んでいる。一方、「好きだからやってるだけ」という姿勢は、個人の内発的な動機を尊重し、多様な生き方を許容する社会の実現につながるものだと言えるだろう。

 ただし、明石家氏の考えが示唆に富むものであるとしても、それが全ての状況に当てはまるわけではない。時と場合によっては、外発的な動機づけが必要になることもあるだろう。大切なのは、状況に応じて柔軟に考え方を変化させ、より良い結果を生み出すための実践的な知恵を磨いていくことだと言える。

 以上のように、高橋氏と明石家氏の発言は、努力の意義と目的をめぐる実践的な問いを提起していると言える。明石家氏の考えは、内発的な動機づけを重視し、状況適応的な思考の重要性を示唆するものだと評価できるだろう。また、その考え方は、多様な生き方を許容する民主的な社会の実現につながる可能性を秘めている。ただし、こうした考え方を絶対化するのではなく、状況に応じて柔軟に思考を変化させていくことが求められる。私たちには、努力の在り方をめぐる実践的な知恵を磨き、より良い結果を生み出すための不断の探究が求められているのだ。そのためには、自らの経験を省みつつ、他者との対話を通じて視野を広げていくことが欠かせない。

 

『努力不要論』とフランクフルト学派

 「努力は必ず報われる」という高橋みなみの発言は、一見すると個人の意欲を奨励するポジティブなメッセージのようだが、実は「成果主義」という支配的なイデオロギーを再生産する言説だと言えるだろう。

 まず、「努力」という概念そのものが、資本主義社会における「業績」の追求と結びついている。アドルノとホルクハイマーが指摘したように、啓蒙の理念は逆説的に「道具的理性」を生み出し、個人を生産性の論理に従属させる。「努力」の称揚もまた、そうした「道具化」の一部なのだ。

 また、「報われる」という言葉には、「努力」に対する「見返り」を求める功利主義的な発想が潜んでいる。これは、人間の活動を「投資」と「収益」の関係に還元する、新自由主義的なイデオロギーの表れだと言えよう。フランクフルト学派が批判したように、文化産業は人々の欲望を商品化し、「幸福」を消費可能なものとして提示するのだ。

 一方、明石家さんまの「好きだからやってるだけ」という言葉は、一見するとこうした「成果主義」への抵抗を示しているように見える。「好き」という感情に基づく活動は、「道具的理性」に回収されない自由な表現とも解釈できるだろう。ハーバーマスが重視したように、「コミュニケーション的行為」には、システムの論理を超越する可能性があるのだ。

 ただし、「好きこそものの上手なれ」という言葉には、別の問題が潜んでいる。それは、「上手」であることを称揚する「能力主義」のイデオロギーだ。個人の能力を競争的に評価する社会では、「好き」という感情さえも「人的資本」として動員されかねない。フロムが警告したように、現代社会における自由は、市場の要請に適合的であることを求める「強制」でもあるのだ。

 したがって、私たちはこの二つの言説をどちらか一方に与することはできない。むしろ、両者に共通する「成果主義」と「能力主義」のイデオロギーを批判的に分析する必要がある。アドルノの「否定弁証法」が示唆するように、私たちは既存の価値観の対立を乗り越え、新たな思考の地平を切り拓かねばならないのだ。

 「努力」と「好き」という言葉は、私たち自身が労働を通じて「疎外」されている状況を反映している。高橋みなみと明石家さんまの発言を通して、私たちは自らが「業績」と「能力」の物差しで評価されていることを自覚せねばならない。そのとき初めて、労働の「解放」の可能性が開かれるだろう。「努力不要論」への道は、私たち自身の「疎外」からの脱却でもあるのだ。

 私たちは、高橋みなみと明石家さんまという「テクスト」を批判的に読み解くことで、「成果主義」と「能力主義」の呪縛から自由になる道を模索せねばならない。彼らの言葉に潜む「亀裂」を手がかりに、私たちは新たな希望を紡ぎ出すことができるのかもしれない。「努力」と「好き」の背後には、私たちの「解放」への道標が隠されているのだ。

 

『努力不要論』とハイデガー

 高橋みなみ氏の「努力は必ず報われる」という言葉と、明石家さんま氏の「好きだからやってるだけよ」という言葉は、一見すると対照的に見えるが、ハイデガーの思想を通して見ると、両者はともに人間の存在の本質を照らし出しているように思われる。

 人間は「世界内存在」として、常にすでに何らかの意味連関の中に投げ込まれている。私たちは、自らが属する特定の歴史的・文化的文脈の中で、固有の可能性を引き受けながら生きているのだ。高橋氏の言葉は、このような世界の中で努力することの意味を問うている。

 「努力は必ず報われる」という言葉は、一見すると単なる励ましのように聞こえるかもしれない。しかし、その背後には、努力することそのものに価値を見出す態度がある。それは、ハイデガーが重視した「本来的な自己」の在り方に通じるものだ。本来的な自己とは、世間の価値観に流されることなく、自らの存在の意味を問い直し、固有の可能性を引き受ける存在なのだ。

 一方、明石家氏の言葉は、このような努力の在り方に一石を投じている。「好きだからやってるだけよ」という言葉は、努力をすること自体が目的化してしまう危険性を指摘している。ハイデガーもまた、私たちが日常的に没入している世界を「Das Man(世人)」と呼び、その非本来性を批判した。世人とは、自らの存在の真理に目覚めることなく、ただ漠然と日々を過ごす人々のことだ。

 明石家氏の言葉は、このような世人の態度に警鐘を鳴らしている。「好きだからやる」ということは、自らの情熱に忠実に生きることを意味する。それは、外的な報酬や評価に囚われることなく、自分自身の存在の意味を問い直すことなのだ。ここには、ハイデガーが説いた「本来的な自己」の在り方が見て取れる。

 しかし、だからと言って、努力することの意味が否定されるわけではない。むしろ、明石家氏の言葉は、努力の在り方そのものを問い直すことを促している。「好きこそものの上手なれ」という言葉は、単に才能だけで物事が成し遂げられるという意味ではない。それは、自らの情熱に基づいて、真摯に努力することの大切さを示唆しているのだ。

 ハイデガーは、芸術作品の本質を「存在の真理の開示」として捉えた。芸術家は、自らの存在を賭けることで、世界の本質を照らし出すのだ。高橋氏と明石家氏の言葉もまた、このような芸術的な営みに通じるものがある。彼らは、アイドルや芸人という役割を通して、人間の存在の真理を開示しようとしているのだ。

 私たちは、彼らの言葉から、努力と情熱の本質的な意味を学ぶことができる。それは、単なる成功のための手段ではなく、自らの存在の意味を問い直し、本来的な自己を取り戻すための契機なのだ。「努力を努力と思う人は二流」という言葉は、このような実存的な意味を持った言葉なのである。

 高橋氏と明石家氏の言葉は、一見すると対立しているように見えるが、その深層では、人間の存在の真理を照らし出す光を放っている。私たちは、この光に導かれることで、自らの生の在り方を根底から問い直すことができるのだ。彼らの言葉は、私たち一人一人に、本来的な自己を取り戻す勇気を与えてくれるのである。

 

『努力不要論』とデリダ

 私は先ほど、「努力」と「好き」という二項対立を提示し、「好き」の優位性を主張した。高橋みなみ氏の「努力は必ず報われる」という言葉は、努力と報酬の直接的な因果関係を示唆しているのに対し、明石家さんま氏の発言は、「好き」であることが努力の動機づけとなり、報酬を期待しないことが重要だと述べている。

 しかし、この二項対立自体を脱構築的に読み解く必要がある。そもそも「努力」と「好き」は対立する概念なのだろうか。「好き」であるからこそ、人は自発的に努力するのではないか。逆に、「努力」を強いられた場合、それは本当の意味での「努力」と言えるのだろうか。「努力」と「好き」は、実は相互に依存し、絡み合った関係にあるのかもしれない。

 また、「好きだからやってるだけ」という言葉は、「好き」であることが努力の必要性を消し去るかのように響く。しかし、「好き」であるからこそ、人はより深く、より真剣に取り組むことができるのではないか。「好き」は努力を不要にするのではなく、努力に新たな意味を与えるのだ。

 さらに、「報われる」ことへの期待の是非についても考えなければならない。「報われる」ことを期待しないことが重要だと言うが、それは「報酬」の意味を狭く捉えすぎているのではないか。努力によって得られるものは、外的な報酬だけではない。自己の成長、新たな発見、他者との繋がりなど、様々な形で努力は「報われる」のだ。

 「一流」「二流」という言葉も問題含みかもしれない。これは努力と報酬の関係性によって人を序列化する発想だが、そもそも人を「一流」「二流」と単純に分類することは可能なのだろうか。人は多面的で複雑な存在であり、ある側面では「一流」でも、別の側面では「二流」かもしれない。このような二分法的な評価は、人間の多様性を見過ごしてしまう危険性がある。

 以上のように、様々な二項対立――努力/好き、報われる/報われない、一流/二流など――を脱構築することで、努力と報酬、好きと努力の関係性について、より複雑で重層的な理解に到達することができる。これらの概念は決して単純に対立するものではなく、相互に影響し合い、時には反転し、絡み合っている。そのことを認識することが、人間の営みの本質を捉える上で不可欠なのである。

 

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